おばさんバイト、泣き笑いのホワイトデー
バレンタインデーに、チョコレート贈った女子は手を上げてー!
はーい、はいはいはーい!
バレンタイン当日、出勤していたキッチン男子全員に、きっちりチョコを贈った、
居酒屋厨房バイトの富士子(45歳)です。
義理とはいえ、チョコはチョコですよ。
まあ、この年になるとね。
「日ごろの失敗を、世俗のイベントに便乗してまとめて謝っておく」ってのは、「卵は茹でたらすぐに冷水につけておく」ってくらい常識。
数ある世俗イベントの中でも、バレンタインは優秀です。もらった方は、確実に喜んで受け取ってくれるからね。「いつもお世話になってます」の気持ちが、2~3倍になって相手に届いちゃう。職場での多少の失敗も、多めに見てもらえるってもんですよ(多分)。こんな利回りの良い商品、ちょっと他には見当たらない。
そんなわけで、先月14日は、しっかりチョコを渡してきました。
で、先日のホワイトデー。
土曜日なので、あたしはお休みだったのですが、その前の金曜日にですね。
「お返しです」っつって、料理長(かっこいい)が、たいそうな紙袋を渡してきて。
ロールケーキがホールで入ってたんですよ、奥さん!
しかも伊勢丹で買ってきたって言うじゃありませんか。
バレンタイン間近の新宿伊勢丹のお菓子売り場が、阿鼻叫喚の大混雑なのは有名ですが、なんと! 最近はホワイトデー間近の伊勢丹も、ものすごい人出。しかも、押し寄せてくるのは男子。ってか、おっさん。30~40代のおっさん(中から上のスーツ着てる)が、群れを成してやってきて、有名ブランドのお菓子売り場に長蛇の列を作ってるの。
で、料理長ですよ。
そんなスーツのおっさんに混ざって、お買い物して下さったなんて!
言っときますが、競馬場じゃないですよ、伊勢丹のスイーツ売り場ですよ。
馬券じゃなくって、ロールケーキ買ってきたんですよ、料理長が。
もう、感激を通り越して、感無量でした。
お返しもらえるなんて、全く考えてなかったしね。
しかも、そのロールケーキは、あたしの知らないお店の品だったの。お菓子に目がない45歳女ってのはね、たいていの有名店は制覇してる。適度にヒマもお金もあるからね。デパートに出ているお店は当然として、学芸大学やら鶯谷くんだりまで出向くのも厭わない。そんなあたしが初めて聞くお店。ちょっとドキドキじゃない?
あ、これね、「ふーん、聞いたことないわ。たいしたことないんじゃない?美味しくなかったらどうしようドキドキ」って意味じゃないのよ、念のため。「あたしの知らないところに、まだまだ美味しいお菓子がたくさんあるのよ! でもって、これは新しい出会いだわ。やだ、ドキドキだわん」って意味なのよ。しかも、料理長(かっこいい)から貰ったんだもん。伊勢丹なら間違いない、って信頼もあって、心のそこから「うわーい!」って嬉しかった。
お店のロゴも紙袋も、白を基調に薄いグレーを使ったきれいな幾何学模様で、ロールケーキもきっとシンプルかつ極上な味に違いない、と思わせる、上品なデザイン。
ああ、ワクワクする。早く食べたい…と思いながら眺めていたら。
「伊勢丹、凄かったッスよ、混んでて。あんなに混んでると思わなかった。時間かかりそうだったから、一番人がいない、空いてるところで買いましたよ。あははっ!」
って、料理長が無邪気に。
そ、そっすか…。
た、たしかに、激混みですもんね。
萎えますよね、普通。
面倒っすよね。
良かったのに。
別に、無理して買わなくて良かったのに。
あたしなんかに。
ああ、どうして?
嬉しかった気持ちが、みるみるしぼんで、辛いものがこみ上げてくる。
あああ、なんか、音がする。
開けちゃいけない、心の扉が開く音がする…
前の会社をクビになったことを思い出した。
あたしをクビにした女社長は、最後の日に送別会を開いた。
仲良くしてた社員たちも交えての、お別れの食事会。お世話になったお礼の気持ちを形にしようと思って、あたしは、一人ひとりに贈り物を用意した。 あれがいいかな、これなら喜んでもらえるかな、って、相手のことを考えて選ぶのは楽しくて、別れるつらさを忘れるほどだった。でも、送別会が終わって、一人で家に帰りながら考えた。気持ちをこめた贈り物だったけど、受け取ったほうはどうだっただろう? クビになった本人から、笑顔で贈り物を渡されても、みんなは複雑な気分だったんじゃないか…。規定がないとやらで退職金もなく、次の仕事の見通しも立たない中年女が、一人ずつに贈り物を渡す姿は相当イタかったんじゃないか…。そもそも、そんな贈り物をすること自体が、「あたしはクビになっちゃったけど、実際は心優しい人間なんですよー」っていうアピールで、「ほら、こんなにみんなのことを考えて感謝してますよー」っていう押し付けだったんじゃないだろうか…。こういう自己満足な行動をするから、クビになったのかも…。あたしのやることは、いつだって独りよがりなんだ…。
そんな思い出が蘇って、次々と、後ろ向きの考えが頭に浮かんでしまう。
バレンタインだって独りよがりだったんだ。あたしを雇ってくれた料理長には心から感謝してる。だから、世界で一番美味しいと思うチョコを用意した。美味しく食べてもらえたらそれで良かったはずだった。今の今まで、そう思ってた。なのに、「一番人がいない、空いているお店のお菓子」って言葉が、胸に突き刺さっちゃってなかなか取れない。独りよがりで押し付けがましいあたしには、そういうお菓子がちょうどいい、って言われたみたいだ。あたしがどんなに誰かのことを思っても、あたしに渡されるのは、間に合わせのお菓子だったり、退職勧告だったりするんだ。
クビを言い渡されたとき、こう言われた。「もう耐えられない」。あたしは、女社長に嫌われたのだ。仕事で重大なミスをしたわけじゃない。他の社員や取引先とトラブルを起したわけでもない。3年前、あたしを見込んで社員にしてくれたのは、当の女社長だった。その恩に報いようと、全力を尽くしたつもりだったけど、すべてが裏目に出て、あたしはクビになったのだった。
世界で一番美味しいチョコを渡しても、返ってきたのは間に合わせのお菓子。
「そうなのよね。前にもこういうことがあったよね。誰かのために全力で仕事したはずなのに、クビになったの。あたしって、いっつもそう。」
誰に言うともなく、部屋で一人で声を出したら、ますます本当に「いっつもそう」なように思えてきた。あたしがやったことには、何の値打ちもなかった。そんな暗い考えが沸き起こって、気持ちが沈んでいく。全力を尽くした? それが何だったの? そもそも、あたしそのものに、何の値打ちもなかった、ってことだよ。誰も、あたしの全力だの感謝の気持ちだの、必要じゃなかったんだから。何をしたところで、最初から、あたしに、値打ちがなかったんだ。
惨めな気持ちが溢れてきて、心が小さく縮んで、呼吸が浅くなって、涙が出てくる。
クビになったのは1年前。忘れていたつもりでも、まだ最近のことなのだ。
もーねー。
こうなっちゃうとねー。
なかなか、リカバリーできないのよね。
子どもじみた被害妄想と青くさい自意識だって、頭ではわかっていても、悲しくてね。
で、ひとしきり泣いたらおなかが空いちゃって。
顔を上げたら、目の前にロールケーキが!
もはや、いわくつき(になってしまった)料理長のロールケーキ。
もう夕暮れで、部屋には西日が一杯に差し込んでる。ああ、クリームが溶けちゃう!
慌てて鼻をかんで、お茶を淹れて、ケーキを切った。
やれやれ、って思いながら一口食べて……、思わずケーキを二度見!
やだ、ものすごく美味しい!
スポンジが超柔らかいんだけど、きめが細かくてフカフカしてないの。かといって、しっとりじゃないの。ちゃんと、ふわふわなの。とろけるような食感でもなくて、しっかりした質感もあるの。クリームも、美味しいこってり感があるけど、しつこくないの。
あたし、これ丸ごといけちゃうかも!
堂島ロール(も大好きだけど、それ)よりずっと好き。美味しいー!!
マジかー! 嬉しいー! 極上のロールケーキじゃん。
食べながら、また涙が出てきちゃった。
これが、間に合わせのお菓子の訳ないじゃん。
ロールケーキはロールケーキだよ。余計な意味なんてないよ。
「間に合わせ」なんて、自分で勝手につけただけだ。
意味をつけちゃうなんて、ばかばかしいよ。
そう思えてきて、可笑しくて笑い泣きしちゃった。
そもそも、あの料理長が場外(馬券売り場)じゃなくて、伊勢丹に行ったんだよ。ってか、ホワイトデーとか覚えてたんだよ。すごくない?
で、買ってきたのが、こんなに美味しいロールケーキ。すんごいグッジョブじゃない?
ロールケーキがあまりに美味しくて、ものすごく前向きな気分になってきた。
はっきり言うけど、料理長は、あたしのために、ケーキ買ってきたんだよ。
ってことは、よ。あたしって、それなりに値打ちがあるんじゃない?
もしかしてだけど。
ああ、ロールケーキ美味しい。嬉しい。西日までが優しく暖かくって、幸せな気分になってきた。
第一、クビになったのって、今のあたしの値打ちと何か関係ある?
今のあたしは、料理の仕事をしてて、ちょっと出来が悪くて、でもそんな毎日をブログに書いて楽しんでて、チョコを渡したくなる先輩や上司がいて、あろうことか、憧れの料理長(かっこいい)にロールケーキ貰ってこうして食べてるのよ。クビになったとか、お金がないとか、もう、どうでもよくない? 美味しく食べる邪魔になるだけよ。そりゃあね、あたしに値打ちを感じない人はあたしをクビにするでしょうよ。でもね、今のところはね、この美味しいロールケーキを貰える程度には値打ちがあるのよ、あたしだって。そこを見誤っちゃダメよ、富士子。だいたいから、どうして、クビになったからって、値打ちがないってことになるのよ? バカじゃないの? 女社長は人の値打ちを決められるほど偉かったの? 神様なの? あんたは信者なの?違うじゃない! クビになったくらいで、卑屈になるんじゃないわよ、富士子!
あまりに美味しくて、前向きどころか強気になってくる始末。
このまま、ジョギングでもしてくるかっ! ってくらい、パワーがみなぎってきた。
で、ゆっくり時間をかけてロールケーキを味わって、気が付くと3分の2本も食べちゃって、すっかりお腹も気持ちも満たされて、そのまま昼寝をしました。なんだか幸せな気持ちで、うとうとしながら「このまま死んで、天使になってもいい」って思いました。
で、すごく寒くて目が覚めて、気が付いたら朝でした。
猛烈に、アップダウンが激しかった、あたしのホワイトデー。
古傷を抉っておきながら、幸せな昼寝に導いてくれたロールケーキ(と料理長)。
ちょっと、忘れられない一日になりそうです。
翌日、当たり前のことながら、当の料理長は全く持って普段どおりで、金髪バイトの天使くんと「火属性のキャラがどーのこーの」とパズドラの話で盛り上がってました。
すべて世は事もなし。
思い出したくない過去やどうしようもない自己嫌悪って、振り払ってもまとわりついてくる面倒なものだよね。そんな時は、美味しいものを食べるのがおススメです。思い切り泣いてお腹が空いた後だと、効果的です。
美味しいものは人生の伴侶。これ、マメ知識ですよ。
明日もバイトだー。
こんな時間になっちゃった。寝よう。